昭和54年11月07日 朝の御理解
御理解 第84節
「おごりがましいことをすな。ものは、細うても長う続かねば繁盛でないぞ。細い道でも、しだいに踏み広げて通るのは繁盛じゃ。道に草を生やすようなことをすな。」
おごりがましい事をしては、これは信心でない世界でもやはりいけません。けれどもどこまでがおごりがましい事か、自分に見当がつかん、このくらいな事は当然、このくらいな事は当たり前、そういうような思い方その事自体が、実はおごりがましい事だと思うんです。自分に何が出来る内容を持っておるか、資格を持っておるか、と思うたら本当に勿体ないあいすまん、という事になるのでしょうけれどもね。このくらいな事は当たり前、もう平気である。
その平気である時に、いわゆる迂闊に致しております。自分がよかつのごと思うとる、という事になる訳です。教祖様が神様からいつお暇が出るやら分からんと仰せられる。身は生神と、又は天地の親神様から一礼を申す。神様から御礼を申される程しの御信心と御神徳を、それだけのおかげを受けておられておっても、尚且つ神様からいつお暇が出るやら分からない。
生神金光大神としての権威をもって、取次導いて下さるかと思うと御自身、いうなら教祖金光大神様が御自身に還えられた時には、何が分かりましょうぞと。無学の百姓でと仰っとられます。そこのところがね。私共はいよいよ頂かねばならない。そこが分る時に初めて、いわゆるおごりがましいという、いうならば見当がつくと思うです。贅沢な事と思うておる事が贅沢でなかったり、何んでもないと思うておる事の中に、いうならおごりがましいというものが一杯出ておる事がございます。迂闊なんですやはり。
昨日ここで丁度午後の奉仕をしておる時でした。本当におかげを受けておる事を、いろいろ神様に御礼申し上げたら有難いなとこう、有難いに浸っておる時でしたが、御心眼に、あれはあやめの花の大きなあやめ菖蒲というでしょうか。あやめ菖蒲が一杯こう咲いておるところを頂きました。紫の色をしてますよね。けれども私それを頂いてから思ったんですけども、まぁ紫の色は安心とおおせられますが、私がいうなら安心をしておる、喜びに浸っておる。
どんな時でも、まぁいうなら慌てんですむとか、又は神様を確信しておるからこそ、この安心、この安らぎがあるんだと、ま思うのですけれども、そういう思いの中に神様は、あぁいうあやめの咲き乱れておるところを御心眼に頂いて、ふと気付かせて頂いた。これは成程紫は安心と仰せられますけれども、この花には実りというものがない。いうなら花ばっかりである。してみると私の花は本当な安心じゃないなと。いわゆるいうならば見掛けばかりだという事になるのです。
またそこで改めて考えさせて頂きますと、ほんに自分の信心は、いわゆる見掛けぼうぶらだろう見掛けばっかりだなと、いよいよ内容を頂いていかなければいけないなと言う風に思うんです。昨日先日からの写真をいろいろ写しておったのが出来たと言うて、佐田先生がここへ持って来て下さるのを見て、ここにこうやって何十枚かの写真をここに置いて、一番上にあったのがこの写真でした。
先日から大坪の家の礼拝場がまた今度出来ます。その礼拝場の棟上げだという前日に、私は建築現場に参りまして、御祈念をさせて頂きましたが。棟上げだというので。その時に繁雄さんが後から、コーモリ傘でこうさしかけておって下さる。皆さん分かるでしょうか。後から見て下さい。私がこうやって御祈念をしておる後から、傘をさしかけておって下さる。この写真をしきりに頂くんです。
成程ここでは傘の事を安心とこう言います。しかも雨降る時だけではなくて、これは照れ降れです。お天気の時もさされる。雨の時は勿論さされるという傘なんです。照れ降れと申しますね。それを後からこうさしかけて頂いておる。傘はいわゆるこの方の道は傘一本で開ける道。いうならば神様を信ずる。そこから生れてくる安心。その安心があれば道は開けると仰っておられるのです。
傘一本持っておればね、たとえどんなに曇って来ても慌てんですむ。よし降って来ても、開けば濡れんですむ。成程傘のお知らせは安心という意味が分かります。本当に自分の心の中に開けてくる、安心の度合いというものが段々深くなっていく。心がいつも安らいでおる。どんな場合であっても、驚かんですむ。慌てんですむ。有り難い信心のお徳を頂いて、身は安心のおかげを頂いておるという事が、有り難いと思うたら、神様がそのあやめの花である。
はぁ今私は自分の心に頂いておる安心が、自分のもののように思うておったけれども、これはどこまでも借り物だ。いや借り物ではない。神様がいつも寄り添うようにして、私にさしかけておって下さるんだと、自分の持っているじゃない、神様がさしかけておって下さるんだと。そこでいうならば教祖様のお言葉ではないですけれども、身は生神という高い徳にお進みになっておられても尚且つ、いつ神様からお暇が出るやら分からんと仰せられたお気持ちが、いよいよ昨日は分からせて頂く気が致しました。
いつんなら神様が傘をたたんで、私から離れなさるかも分からんのです。そこで神様からです。たえず寄り添うておってもらうというか、神様にこちらが寄り添うておるというのか、いよいよ神様を外す事の出けない、いうならば自分であるという事を分からしてもらう。福岡の修行中の時分にお月次祭を仕えるとお供えが、いわゆる神様は水づくしだと言うて下さった。
水玉は勿論、お神酒すずも水。もうそれこそお水のお供えに等しいような、いうならば有り合わせのものでのお月次祭を仕えておった時分に、本当に相済まん事だ。お神酒一つお供えが出来ないという事は、本当に相済まん事だと、ま思わせて頂いたんですけども、その時神様がね、[水づくし魚づくしになるまでは、離れられぬがわしの心じゃ]というお歌を頂いた事がございました。
もう本当に今の合楽の場合は、もう魚づくしどころではない。もうさまざまなものが、しかも最高のものが、いうなら最高のものずくしで、今日合楽はおかげ頂いております。いうならあれも足らいこれも足らうような、おかげを合楽教会自体は頂いております。だからこういうおかげを合楽に御神縁のある方達のすべての人に、いうなら分け与えたい。また頂いてもらいたい。それには私が指しておるのではないけれども、神様が差し掛けておって下さる。
この私の元には神様がいつも、この傘を差し掛けておって下さるのであるから、その傘下のもとに、皆さんが集まって来なければいけない。傘下いうならその傘の下である。昨日も丁度お食事をしておりましたら、福岡の松岡さんの御親戚一家が、山田さん御一家が、是非親先生に御礼を言いたいからと言うて参って来た。丁度私が午後の奉仕をしておる時に電話が掛かってきた。もう実はお願いに上がらなきゃいけないのですけども、実はこういう問題が起きて、もういよいよこういうもう大変な問題なんです。
それこそもうこれは、もういよいよこれだけの財産を、山田さんと言うて松岡さんの奥さんの妹さんの御主人なんです。甘栗を福岡でしておられる方です。もうここで全財産打ちぶったって仕方がないという程しの問題であったのです。それで電話でお願いをし、そして私は何と申しましたか、兎に角心配はいらんという意味の事を申しました。松岡さんの奥さんからかかってきましたから、それで昨日見えてからですもん。親先生があんなに大丈夫と仰るから、山田さん心配する事はいらんですがと。
そこへこう言う様な心掛けで親先生がこう仰ったから、そんな気持で望みなさいと言うてその問題に臨んだ。もうそれは一時はいよいよもう駄目だと思う様な私になってきたのですけれども、お電話を頂いて松岡のお姉さんから電話を受けられたその時点から話が、もう逆転して有難い方へ。もう本当に宏大なおかげを頂いてというて家族中で御礼に出て来られたんです。いうならば親先生が大丈夫と言われたから安心。それは私のいうなら差し掛けて頂いておる傘下に寄り添われたと言う事になります。
松岡さんの奥さんが、親先生があゝ仰っておられるけん山田さん安心じゃがと、心配せずにおかげ頂きなさいと言うて、それから数時間後にはもう御礼に出て来ております。もうそれこそ夫婦の者が涙を流しての御礼のお届けでした。もう話を聞くならもう本当にびっくりするようなおかげなんです。皆さんがここでどんな心配事を持って来ておっても、ここに入って来て、お広前に入って来ると途端に心が安らぐ安心。私の差しとるいわば傘下に集まるから、その安らぎが生まれてくるのです。
不安がいわゆるそのお届けする事もないごと、心の中に安らぎが生まれて来るんです。ここへ来ても心配が取れない。お取次を頂いてもまだ不安という時には、まだ形は出来とるけれども、いうならばまだ傘下にない時だと悟らなきゃいけません。いうならば神様を信じていないというか、親先生を信じていないからこの不安があるんだ。心配があるんだと思うて、私はおかげ頂かにゃいけないと思う。
丁度私がそういう考えに耽っておる時でした。本当にそうだろうなと私のは神様から差し掛けて頂いておるだけ。あの時に神様が、もう魚づくしになるまでは離れられんとおっしゃったから、もう合楽も魚づくしになったから、わしが離れてもよい、と神様が言うて離れなさるかも知れん。そこでこっちがです。こっちが今度は離しはせん、という信心がいるんだなという事です。
もうこれだけのおかげを頂いたから、神様も安心して離れて下さるような事であっては、いよいよでけん。いよいよ私は神様を頂き続けるこちらの精進がいるんだ、という事でございます。ですからとても驕りがましい事なんか出来んでしょう。神様がいつ離れなさるやら、それこそ教祖様じゃないけれども、いつ神様がお暇を出しなさるか分からん。いつ神様からお暇が出るやら分からんという事になるのです。
昨日私はその事を頂いて、自分のものならそんな事はないのです。神様がただ後から差し掛けとって下さるだけなんだ。だから神様が回れ右しなさったらもうおしまいだ。そこでいうならば私の心の中には、ま戦々恐々という事ではないけれども。それこそ薄氷の上を渡るような心で、いつも自分の信心の内容というものを、見極めて行きよらなければ駄目だ。そこでなら驕りがましい事やらは出来んという事になるのです。
そこでです。おごりがましい、いやあそればってん先生位なその贅沢な暮らしをしとんなさる人はあるまい。もう私は毎日、久富先生と家内と三人で夕食をさせてもらうんですけども、勿体なかの勿体なかの。これほんなこて頂いてよかっじゃろうかと言うて、まそして頂いてしまいますけれどもね。本当に勿体ない。これはお食事一つだけでも勿体ないおかげを頂いております。
と言うて勿体ないからと言うて、ならこれはも食べんと言うたら、折角神様が大坪総一郎に、と言うて下さっておるものを遠慮する事になるのであり、おかげの遠慮という事はいけません。下さるものを、それこそ有難く頂かせて頂くという事。そして勿体ないという心で、こんくらいな事は当たり前というのではなくて、そしてです。なら私がね、自分の手の届かない所のものまでも、手をさい出そうとする事、その事が驕りがましい事だというふうに私は思うております。
こげなものは食べられん。あればいっちょ買うてこいと、もし私が言う様になった時こそが、これはいよいよ驕りがましい時であって、兎に角神様に与えられるものは、天地の中にお恵みとして、神様が人間氏子を幸福にせずにはおかんという働きが、素晴らしい着物にも食事にも食物にも、様々な事柄の中にも現われてくる。それを私は頂かせてもらう。自分の手の届くかぎりの所のものを頂くという事は、これは有難い事だ、と言うことになるのです。
いつも言うように、一万円の給料を取っておる人が一万二千円の、いや一万一千円のいうならば生活をするなら、これは贅沢です驕りがましいです。一万円なら一万円の生活、いやそれを少しは貯めていかないかんと思うなら、九千円の生活八千円の生活をさして頂いて、本当な事なんです。借金しまわっといてから、そしてよか着物を着たり、よか物を食べたり、これはもう、いよいよ持って驕りがましい事でしょう。
だから自分というものをまず知る事だ。あゝ自分は本当、今こんな固い御飯頂いとるが、固い御飯どん頂ける資格がないと思うたらおかゆさんにするがよい。三食食べとるなら二食にするがよい。そこから本当に三食なら三食頂けれる固い御飯の頂けれる、いうなら資格を頂くがよい。自分という者を知る事なんだ。そして百万円の給料が頂けれるようになったら、百万円の給料生活さして頂いても、それは贅沢とかおごりがましい、という事ではないのだ。
神様が何の為に、こういう素晴らしいものを作って下さってあるか、ただ人間氏子に与えたいばっかりnおですから、それが頂けるようになった時に、神様も喜んで下さるのだ、というこれは私の頂き方ですけれども。自分の信心、自分の安心と思うておったのは、神様からの借り物。だからその借り物もです。一生借り続ける事が出来たらその方のもんじゃ、というお知らせを頂いた事があります。
まぁだ修行中の時分に福岡の教会ででした。本当にお前のように幸せ者はないぞと、金光大神と言えば金光大神が教えて下さる。いうならば小倉の桂松平と言えば桂松平が現われて教えを下さる。まそういう時代があったんです。そういう時分が。だから本当に信心も出来んのにこんなおかげも頂いて有難い。こんな御徳を頂いて勿体ない、と御礼を申さして頂いたら神様からね。
「お前は、その徳を自分で頂いとると思うか」と言われた。だから本当に勿体ない事です、と言うて御礼を申し上げたら、「お前のは頂いてるのじゃない、借りものじゃ、貸しものじゃ」と仰った。言われて見れば、ほんにそうじゃろう。信心も出来んのに、とても神様からお知らせ頂くなんて、そこにしかも金光大神と言えば金光大神、四神様と言えば二代金光様が現われて下さる程しのおかげを頂いておる。とてもこげな事が頂けるとは夢にも思わなかった事である。
自分位な者の信心に頂ける筈はない。もうこういう事は昔の御徳を受けられた先生方の専売特許のように思うておった。それが事実私の上に、それが現われてきた時にです、私はそれを有り難い勿体ないなあ頂いておるんだなあ、という事を思ったけれども、お前のはね、頂きものじゃない、借りものじゃ貸しものじゃと仰る。私は借りておるのである。神様は貸しておられるのです。そうどころじゃあるまいと思うて改めて思わして頂いたら、神様が一生借り続ければ、その方のものだとおっしゃったんです。
だからここ宗教的な言葉の中に大安心という言葉があります。私は大安心のおかげを頂いておるようにあるけれども、それは借りものである。だから私が油断なく一生それを借り続けた時に、私はいよいよあの世で頂くのが大安心のおかげであるな、という事を昨日、また改めて分からして頂いた。だから私共がね、借りものであるという、いうならばおかげで出けておるんだと。
なら皆さんの場合なら、親先生のおかげで頂けておるんだという時にです。親先生が向こう向きなさったら、もうそこでおかげがぴしゃっと止まってしまう事になる。だというそういう自覚に立っての信心になるとです、私共は本当に迂闊にしておる事をあぁ迂闊だな、電気一つでもいらん所につけとるとは、これはまあ驕りがましいんです。それを迂闊にしておるんです。
私がいつも言うように電気というものは、今ちゃんと二つ点くようになっとる。私の部屋だけはもう必ず、だから一つは消してある。スイッチを入れても一つしか点かん。まその位な細心な気持でおっても、どこからか漏るようにして、その神様のお心に適わんようなことになっとるかも分からんから、結局薄氷の上を渡るような思いで、私共が信心をいよいよ続けて、神様から離れられちゃ困る。神様にいつも寄り添われ、また寄り添う心の状態というものがいる。
手の届かんものを自分が求めると言った様な事は、これは驕りがましい事なんだと、分からしてもろうていけばですね、おごりがましいと言う様な事にならんですむ。そして人から見たら、はぁもう大変な本当に信心すりゃ、あぁいう立派なものを身に付けて、あぁいう素晴らしいものを食べられて、あぁいう素晴らしいお家に住まわれて、というようなおかげが頂けれるような信心を頂く。
おかげを頂く為にもです。そのおごりがましい、というところにいつも自分の心を置いてね、これは自分にはちったおごりがましい事ではなかろうかと、思うたら改めていく事。お腹が痛む。直ぐおかゆさん、梅干しというふうにせにゃいかんでしょうが身体の上でも。だから同じ事です。経済なら経済な面に、今が腹痛を起こしとる下痢を起こしとる、と言った様な時があります。
入ったかと思えばもう出してしまわんならん。これはまさしく下痢です。そういうところに気付いたならです、本当にこれはお粥さんを今頂かなきゃならない時だと言う風にです。自分の言わば慎めるだけの慎みを持って、神様へ向かわして頂くという事が実意という事ではなかろうかと思う。そして神様にすがっていくのが信心である。いわゆる実意丁寧神信心とは、そういう事にもなると思うのです。
細い道でも踏み広げて通るのが繁盛だと仰る。本当におかゆさんのもう実を言うたら、頂く資格がないのだけれども、というのが私の修行中の時分に、お粥さん一椀という時代があったんです。そういう細い細い道を、だんだん段々踏み広げて今日まで、こういう素晴らしい大きな道に踏み広げておる。だからそういう大きな道に踏み広げて、もうこれが私の信心で、私のお徳でこれだけのものが出来た。
と言った様な事になると驕りがましい事になりますから、神様からいつ離れられてはでけんという、いうならば心で信心を続けるという事がですね、取りも直さずいよいよ、広がりに広がる大きな道を、いよいよ大きな道にしていく事が出来るという事になるのです。神様からの預かりもの、神様からの借りもの貸しものである。いつ神様が離れなさるか分からん、というような心の状態で、信心を続けたいものですね。
どうぞ。